North Notes of Historia 京街道編 Vol.1

五十七次ってほんまですか⁉「まきかたちゃいまっせ」「牧方宿」

宿場町枚方を考える会 元会長 堀家啓男

大坂夏の陣(1615)のあと、枚方宿は設置された。なぜ五十三次より遅れたのか。それは、豊臣家が大坂でまだ頑張っていたから。徳川家が勝利をおさめた結果、京街道四宿を宿駅に加えて東海道五十七次となったのだ。枚方宿が出す公文書でも「東海道牧方宿」と明記している。

枚方宿の誕生

枚方宿誕生の礎は戦国末期、枚方蔵谷(くらのたに)につくられた「枚方寺内町」の歴史と、そこで活躍した商工業者ら町衆の活動の積み重ねによって醸成された。
 戦国末期、蓮如上人が、越前の吉崎御坊を出て、水運に恵まれた出口にやってきた。そこで小さな坊(後の光善寺)を開き、河内での再興を目指す。上人亡きあと、要害で水害の心配のない台地、且つ、近くに水運の便のある枚方、蔵谷(くらのたに 現在の枚方元町)に拠点を移し、永正11年(1514)、「枚方御坊」が後継者実如によって開かれ、寺内町が生まれる。その後、蓮如の末子実従が住職となり、順興寺が開基。順興寺寺内は大坂本願寺や近辺の商工業者らが移り住み、枚方寺内町として大いに発展することとなったのだ。
 しかし、織田信長の本願寺攻めの「枚方陣取り」で枚方寺内町は消滅し、町衆たちは淀川の津であった近くの三矢に移り住み、発展に寄与する。秀吉の天下となると、秀吉は繁栄する三矢村を組み入れて文禄堤を築き、文禄5年(1596)には、文禄堤の上に「京街道」が置かれ、京坂間の陸路による交通が盛んになったことで、三矢村と隣村岡村は淀川の津として、また陸路京街道の中継地として大きく発展し、宿も増えることとなった。
 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いを制した徳川家康は幕府の開設に先立ち、まず江戸から京都まで東海道の宿駅を置く。大坂は豊臣秀頼が健在で後回しになった。家康が大坂夏の陣で秀頼を滅ぼした(1615)あと、ただちに京街道の伏見、淀、枚方、守口の四宿(京街道四宿と通称)を宿駅に加え、東海道とした。淀川舟運とともに陸路京街道が旅客、運輸の交通の幹線となり、これが江戸、京都、大坂間を結ぶ水陸の要衝、東海道枚方宿の誕生だ。

枚方宿の構成

枚方宿は、町場として基盤ができていた三矢、岡村を中心に岡新町、泥町村を加え、4村の構成とされた。守口に残る古文書で、守口宿が大坂夏の陣の翌、元和2年(1616)に宿駅とされ、枚方宿の設置も同時期と推定されている。
 村名に枚方がないのに「枚方宿」と名付けられたのは、戦国末期に基盤ができた商工業者・町衆による「枚方寺内」にあやかったのではないだろうか。
 枚方宿は東海道各宿と同じく百人の人足と百疋の継ぎ馬を用意する「宿駅」とされ、諸侯の参勤交代の駅務を務めた。三矢村には「本陣」と称した大名の宿泊施設や、人馬の継立を行う「問屋場」が置かれ、大名や幕府役人の通行を助けた。これらの宿行政を担当する「宿役人」は4村の村役人から選ばれた。
 宿の東の出入り口、京都側は「東見附」、西の大坂側は「西見附」と呼び、茶店があった。
 宿内の建物は当初は藁葺、後には防火に適した瓦葺の旅籠屋や商人宿、煮売り屋、商店が軒を連ねた。往還筋は約1.5キロにわたり、遠見遮断、蛇行、枡形など城下町に似た見通し困難、直進できないという特徴を有していた。幸いにもその道筋はいまも鮮明に残り、三矢の浄念寺前、枡形の一角に立てば近世、宿駅の雰囲気を味わうことができる。
 枚方宿4村も他村と同様に年貢を納めていた。それに加えて宿駅業務を務めたため、幕府の援助はあったものの村の負担は大きかったようだ。さらに、枚方宿周辺の28カ村には幕府によって宿を支援する助郷制度が適用され、その負担は村々にまで及んだという。
 枚方宿は守口宿とともに淀川舟運や山崎道(西国街道)による経済的影響を受けていた。特に伏見からの客や貨物が、大坂まで直行の船便で下ることが多く、下りの宿泊客や荷物が極端に少なかった。宿泊は、陸路の上り客にほぼ限られ、宿駅の経営にも支障が生じていた。宿ではこの現象を「片宿(かたしゅく)」と呼び、公儀の援助や支援を何度も要請した。要望はなかなか実現せず、枚方宿に飯盛女が多かったのも旅籠屋等を支える経営努力の一環であったのだろう。

品川宿から守口宿までの五十七次が東海道

宝暦8年(1758)大目付依田和泉守の問い合わせに、道中奉行所御勘定の谷金十郎は「東海道 品川より守口迄」と文書回答している。また、寛政元年(1789)、土佐藩から東海道筋についての問い合わせに対して道中奉行は「近江路を通り伏見、淀、枚方、守口までのほかは是無き」と文書回答している。(参考 「東海道枚方宿と淀川」 中島三佳 著)東海道は品川宿から五十七次目の守口宿までということで、枚方宿は五十六次目だった。但し、東海道を所管した道中奉行のマニュアル「道中方覚書」には、品川宿から守口宿まで「東海道は江戸より大坂迄馬継五十六ケ宿外人足役壱宿(注 守口宿は人足役のみであった)」の五十七宿と、品川宿から大津までの五十三次を併記している。京都までの五十三次が先行したことや、平和な時代が訪れた江戸中期の旅ブームや、浮世絵の「東海道五十三次」(安藤広重作)が大流行したことも重なり、「東海道五十三次」が一般に定着し、強いイメージを作り上げたのだろう。幕府官僚もそれを無視できなかったのかもしれない。近世を通じて枚方宿が受発した公文書は「東海道牧方宿」と明記し、宿役人はもちろん幕府等の発信人も枚方宿が東海道の宿であることを認識していた。(参考 「近世交通史資料集巻10」吉川弘文館 「枚方市史第3巻」枚方市) 
 なお、宿が受発する公文書では「牧方宿」や「東海道牧方宿」と慣用し、「牧(まき)」と書き、「ひら」と読んでいた。旅ブームで発行された旅行案内でもすべて「牧方」と記され、常用された。
 「枚方寺内」の住職実従が残した日記「私心記」でも「牧方」を使っていたので、すでに戦国末期にも慣用されていたのかもしれない。明治に入っても明治9年(1876)の枚方小学校の卒業証書で「牧方小学」と書かれていた。10年代には「枚方」に統一されたが、その後もなかなか行きわたらず混用されている。「まきかたちゃいまっせ」ほんまに。
枚方宿東見附  新町1丁目 枚方市駅北口下車、北へ徒歩約8分 
 同 西見附  堤町 枚方公園駅下車、北へ徒歩約5分
 同 本陣跡  三矢町 両見附から旧街道筋徒歩約20分

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