North Notes of Historia 京街道編 Vol.2

布団の下に3mの鉄板かっこつけたい殿様

 紀州和歌山五十五万石の殿様、大坂城の城代、警備の大番衆などが枚方宿で休・宿泊していたことがわかっている。なかでも紀州侯の行列は約三千二百人、槍、馬印、手弓、具足櫃、馬、鷹、犬までそろっていた。毎年、枚方宿はその宿泊や人馬調達の仕事を行い、晴れがましくも、大変な駅務だった。

殿様は宿泊料を払わず

 大名行列は1日でマラソンコース以上の距離を踏破する。しかも連日。参勤交代は大変な強行軍だった。紀州侯の参府(江戸にいき将軍に面会)は和歌山出立後、貝塚宿で1泊、2泊目が枚方宿、そして大津宿か草津宿という順に進み、15~16泊(美濃路、東海道、中山道経由により異なる)で江戸に着くことができた。貝塚から枚方までおよそ12里、約50キロを午前4時起床、6時出発、1日でも、1泊でも宿泊回数を減らし、経費を節減するため、まさに韋駄天走りの行程だった。6代藩主宗直の時、寛保元年(1741)、それまでの伊勢街道コースではなく、宿駅制度の整った上方街道(京街道コース)を常用し始めた。宗直は在任41年と長く、参府17 回、帰国17回にも及んだ。後に、将軍吉宗となった頼方は5代藩主で在任10年6カ月、参府4回、帰国3回で、宝永8年(1711)の参府の際、上方街道、枚方宿を利用している。(参考 「東海道枚方宿」枚方市教育委員会)将軍家茂となった13代慶福は、4歳で藩主となり在任9年、帰国も参府もなかった。殿様は宿の本陣に泊まり、本陣は大名、旗本等の専用休・宿泊所といえる。軍旅と同じで、宿が請求書を出して宿泊料をもらうものではなかった。大名は宿泊料を払わず、かわりに祝儀を出していた。中小大名で2~3両(約12~18万円)、大大名の紀州侯が草津宿で渡した祝儀は、天明5年(1785)の記録では、宿泊、10両(約60万円)とある。小休の場合はその半額ほど。ある本陣では大名が当主と喧嘩し、祝儀を出さないこともあったようだ。どこの本陣も経営はきびしかったが、一方、本陣当主は世襲制で、馴染みの大名から名字、帯刀を許されることもあった。枚方宿の本陣は1軒で、三矢村にあり江戸屋池尻善兵衛家。「摂州御家中池尻善兵衛」の名前が刻まれた石灯篭が、意賀美神社境内(枚方上之町)に残っている。高槻藩永井家(枚方宿4村の預所)から許されたのだった。

「紀伊大納言宿」の関札

大名家の本陣宿泊は早ければ1年前、だいたい3、4カ月前に予約され、本陣から間取り図と一緒に御請書を出す。紀伊家では数日前に表用部屋吟味役が関札をもって先着し、本陣当主や宿役人と打ち合わせ、旅籠屋を割り振り、関札を立てた。関札は紀伊家の表祐筆が書いたもので、長方形の大きな木札に宿泊の場合は「宿」、小休の場合は「休」と書く。休泊するすべての本陣に事前に届けられた。このため各宿の
必要数、数十枚を長持に入れて勘定同心と七里之者(専用飛脚のような存在)が運んでいた。各宿にはこれを運ぶ人足の御用もあり、関札を預かった本陣は、三方に載せ、灯明をたき、床の間に飾り敬った。
 関札こそ大名行列の威光の象徴で、官職名を書き、紀州侯の宿泊所であることを掲示したのだった。東西の見附と本陣前に「何月何日 紀伊大納言宿」と敬称略で書かれた木札を高さ4、5メートルの青竹で掲示し、関札が立てられると、その期間、その本陣には他の大名は休泊できない。宿にとっても誇らしく晴れがましいことだった。
 宿泊当日、本陣では門と玄関に紀伊家の定紋の入った幕を張り、玄関前に関札を高々と掲げ、到着を待つ。宿内は往還筋の掃除がおこなわれ、清めの川砂がまかれた。

本陣当主が出迎え

本陣では、当日、出口村松ヶ鼻(帰国の場合は上嶋村)の立場(たてば 休憩所)へ見張り人足を出した。人足は一行が見えると腰につけた鈴を鳴らしつつ、「遠見が帰りました」と声を張り上げて走り、本陣に通報する。(旧「枚方市史」以下「旧市史」昭和26年“1951”枚方市)これを聞いた本陣当主は麻裃を着用、両刀を差し、西見附で平伏し、松並木をやって来る行列を恭しく迎えた。殿様の駕籠が当主の前に来ると、太さ5ミリ、長さ50センチ程の竹先に縦9センチ、横2センチ程の白い和紙でつくった名刺のようなものを挟んで差し出す。これには「枚方宿御本陣池尻善兵衛」と記され、近習が受け取り、殿様に「枚方宿御本陣、池尻善兵衛、是まで出迎え」と言上し、殿様から「大儀」と一言あるか、会釈があり、再び行列は動き出すのだった。
 本陣までは宿役人総出で先導し、本陣当主は腰をかがめて行列横を小走りで通り抜け、再び本陣前で平伏し殿様を迎えた。旧市史では、殿様の駕籠は本陣の玄関から上がり、上段の間まで行き、そこで駕籠から降りたと記されている。
 殿様の使用する物品はすべて大名家が持参し、本陣で用意するのは炭と薪だけだった。本陣での殿様の食事も風呂の準備もすべて従者が世話をし、本陣当主はお目見えのあと引き下がった。

布団の下に長さ3mの鉄板

 大名行列では風呂桶、食器、夜具、水、漬物の樽など、さらに碁、将棋の娯楽道具まで持って歩いていた。郡山宿本陣(茨木市)にある殿様用の風呂場には風呂桶はなく、着替え用の畳のスペースに続き、風呂桶を置くスペースがある。別に湯を沸かし、差し湯をしていたようだ。枚方宿の本陣も同様だったのだろう。殿様の便器は丸印をつけた長持に入れ、常に行列を離れず、必要に応じて簡単に組み立て、その周囲に幕を張った。膳具、寝具、浴具などは「中抜き御長持」として、殿様の休憩中に追い越して、先に本陣に到着するようにしていた。
 紀州侯独自の極秘の道具として丈余(3メートル余り)の鉄の延べ板を運んでいた。刺客の攻撃を防ぐため本陣上段の間には畳の上にさらに一段高く、畳2畳が敷かれたが、紀州侯の場合、さらに布団の下に鉄の板を敷いていた。鉄の板を入れた浅黄木綿の袋を、17人の人足で運ぶ極秘の長持まであり、側近しか知らなかった。(参考 歴史読本昭和31年12月号1956)紀州侯の行列は侍だけで約千三百人という大所帯で、宿中借りきりで、商人宿鍵屋にも侍等15人が宿泊したことがあるそうだ。

威儀を正しての行列は人目のあるところだけ

 大名行列のシンボル、槍投げの儀式は出立のときと道中の城下、宿の往還筋だけだった。大名行列は、大名の晴れ舞台であったが、ええかっこできるのは見栄えのいいところだけだった。殿様は城下や宿の中など人目の多いところは駕籠に乗り、その他は経費節減、時間短縮のためひたすら徒歩、馬を利用した。人足も臨時雇いが多く、経費を節約すれば、いい人材が集まらず、問題を起こすこともあった。枚方宿にとっては、多数の人馬継ぎ立てが必要で、天保3年1832)の紀州侯の場合、枚方宿常備の人足では足りず、周辺の助郷村が1507人の人足を出している。よって助郷村の負担は莫大だった。枚方宿の助郷村は周辺28カ村で、枚方宿の応援に泣かされていた。
 参勤の経費は天保2年(1831)の紀州侯の例では片道だけで8650両、およそ5億1千万円、そのほかに侍への手当が4280両、約2億6千万円、合わせて7億7千万円ということでした。規定数の侍の宿利用料金は公定料金でおおむね一般料金の二分の一、その差額は宿の負担だった。宿の負担分は年貢の減免でまかなわれ、どの大名も大いに見栄を張り規定を超える人数となり、超えた分は一般料金を支払ったため、宿はそれで帳尻をあわせていた。

がさつな「七里之者」

 紀伊家は江戸と和歌山の間に「七里役所」という飛脚の施設をおき、「七里之者」を配置した。枚方宿にも岡村の「宗左の辻」に「枚方七里役所」が置かれた。行列の通過1カ月ほど前に枚方にやってきて、行列の準備をし、通過後は残務整理を行い、都合50日程、滞在した。滞在費や人足代はすべて宿の負担、その上、御三家の威光を振りかざし、宿役人や人々に横暴で、金銭要求を行うなど大変迷惑な存在だった。宿では「一向がさつ」な連中と呼んでいた。毎年通行する紀州侯を崇め
親しく思う一方、助郷に動員されるなど、難儀で迷惑な存在でもあったため、昔から枚方では聞き分けのない子供を揶揄して「きしゅうさん」と呼び、泣く子と紀州様には勝てないという意味だったそうだ。紀州侯の参勤は毎年3月(御三家のうち尾張、紀伊のみ。水戸は常府)出発となっていた。外様大名は毎年4月、東西交代で参勤、譜代大名は6月と8月に参勤、在府、在国1年ずつで、なるべく分散させて重ならないようにしていた。

著:宿場町枚方を考える会 元会長 堀家 啓男

枚方宿本陣跡
枚方市駅から旧京街道を西へ徒歩約15分 枚方公園駅から北へ、淀川の手前で右折、旧京街道を東へ、市立枚方宿鍵屋資料館を経て、徒歩約15分

North Notes of Historia 京街道編 Vol.1

五十七次ってほんまですか⁉「まきかたちゃいまっせ」「牧方宿」

宿場町枚方を考える会 元会長 堀家啓男

大坂夏の陣(1615)のあと、枚方宿は設置された。なぜ五十三次より遅れたのか。それは、豊臣家が大坂でまだ頑張っていたから。徳川家が勝利をおさめた結果、京街道四宿を宿駅に加えて東海道五十七次となったのだ。枚方宿が出す公文書でも「東海道牧方宿」と明記している。

枚方宿の誕生

枚方宿誕生の礎は戦国末期、枚方蔵谷(くらのたに)につくられた「枚方寺内町」の歴史と、そこで活躍した商工業者ら町衆の活動の積み重ねによって醸成された。
 戦国末期、蓮如上人が、越前の吉崎御坊を出て、水運に恵まれた出口にやってきた。そこで小さな坊(後の光善寺)を開き、河内での再興を目指す。上人亡きあと、要害で水害の心配のない台地、且つ、近くに水運の便のある枚方、蔵谷(くらのたに 現在の枚方元町)に拠点を移し、永正11年(1514)、「枚方御坊」が後継者実如によって開かれ、寺内町が生まれる。その後、蓮如の末子実従が住職となり、順興寺が開基。順興寺寺内は大坂本願寺や近辺の商工業者らが移り住み、枚方寺内町として大いに発展することとなったのだ。
 しかし、織田信長の本願寺攻めの「枚方陣取り」で枚方寺内町は消滅し、町衆たちは淀川の津であった近くの三矢に移り住み、発展に寄与する。秀吉の天下となると、秀吉は繁栄する三矢村を組み入れて文禄堤を築き、文禄5年(1596)には、文禄堤の上に「京街道」が置かれ、京坂間の陸路による交通が盛んになったことで、三矢村と隣村岡村は淀川の津として、また陸路京街道の中継地として大きく発展し、宿も増えることとなった。
 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いを制した徳川家康は幕府の開設に先立ち、まず江戸から京都まで東海道の宿駅を置く。大坂は豊臣秀頼が健在で後回しになった。家康が大坂夏の陣で秀頼を滅ぼした(1615)あと、ただちに京街道の伏見、淀、枚方、守口の四宿(京街道四宿と通称)を宿駅に加え、東海道とした。淀川舟運とともに陸路京街道が旅客、運輸の交通の幹線となり、これが江戸、京都、大坂間を結ぶ水陸の要衝、東海道枚方宿の誕生だ。

枚方宿の構成

枚方宿は、町場として基盤ができていた三矢、岡村を中心に岡新町、泥町村を加え、4村の構成とされた。守口に残る古文書で、守口宿が大坂夏の陣の翌、元和2年(1616)に宿駅とされ、枚方宿の設置も同時期と推定されている。
 村名に枚方がないのに「枚方宿」と名付けられたのは、戦国末期に基盤ができた商工業者・町衆による「枚方寺内」にあやかったのではないだろうか。
 枚方宿は東海道各宿と同じく百人の人足と百疋の継ぎ馬を用意する「宿駅」とされ、諸侯の参勤交代の駅務を務めた。三矢村には「本陣」と称した大名の宿泊施設や、人馬の継立を行う「問屋場」が置かれ、大名や幕府役人の通行を助けた。これらの宿行政を担当する「宿役人」は4村の村役人から選ばれた。
 宿の東の出入り口、京都側は「東見附」、西の大坂側は「西見附」と呼び、茶店があった。
 宿内の建物は当初は藁葺、後には防火に適した瓦葺の旅籠屋や商人宿、煮売り屋、商店が軒を連ねた。往還筋は約1.5キロにわたり、遠見遮断、蛇行、枡形など城下町に似た見通し困難、直進できないという特徴を有していた。幸いにもその道筋はいまも鮮明に残り、三矢の浄念寺前、枡形の一角に立てば近世、宿駅の雰囲気を味わうことができる。
 枚方宿4村も他村と同様に年貢を納めていた。それに加えて宿駅業務を務めたため、幕府の援助はあったものの村の負担は大きかったようだ。さらに、枚方宿周辺の28カ村には幕府によって宿を支援する助郷制度が適用され、その負担は村々にまで及んだという。
 枚方宿は守口宿とともに淀川舟運や山崎道(西国街道)による経済的影響を受けていた。特に伏見からの客や貨物が、大坂まで直行の船便で下ることが多く、下りの宿泊客や荷物が極端に少なかった。宿泊は、陸路の上り客にほぼ限られ、宿駅の経営にも支障が生じていた。宿ではこの現象を「片宿(かたしゅく)」と呼び、公儀の援助や支援を何度も要請した。要望はなかなか実現せず、枚方宿に飯盛女が多かったのも旅籠屋等を支える経営努力の一環であったのだろう。

品川宿から守口宿までの五十七次が東海道

宝暦8年(1758)大目付依田和泉守の問い合わせに、道中奉行所御勘定の谷金十郎は「東海道 品川より守口迄」と文書回答している。また、寛政元年(1789)、土佐藩から東海道筋についての問い合わせに対して道中奉行は「近江路を通り伏見、淀、枚方、守口までのほかは是無き」と文書回答している。(参考 「東海道枚方宿と淀川」 中島三佳 著)東海道は品川宿から五十七次目の守口宿までということで、枚方宿は五十六次目だった。但し、東海道を所管した道中奉行のマニュアル「道中方覚書」には、品川宿から守口宿まで「東海道は江戸より大坂迄馬継五十六ケ宿外人足役壱宿(注 守口宿は人足役のみであった)」の五十七宿と、品川宿から大津までの五十三次を併記している。京都までの五十三次が先行したことや、平和な時代が訪れた江戸中期の旅ブームや、浮世絵の「東海道五十三次」(安藤広重作)が大流行したことも重なり、「東海道五十三次」が一般に定着し、強いイメージを作り上げたのだろう。幕府官僚もそれを無視できなかったのかもしれない。近世を通じて枚方宿が受発した公文書は「東海道牧方宿」と明記し、宿役人はもちろん幕府等の発信人も枚方宿が東海道の宿であることを認識していた。(参考 「近世交通史資料集巻10」吉川弘文館 「枚方市史第3巻」枚方市) 
 なお、宿が受発する公文書では「牧方宿」や「東海道牧方宿」と慣用し、「牧(まき)」と書き、「ひら」と読んでいた。旅ブームで発行された旅行案内でもすべて「牧方」と記され、常用された。
 「枚方寺内」の住職実従が残した日記「私心記」でも「牧方」を使っていたので、すでに戦国末期にも慣用されていたのかもしれない。明治に入っても明治9年(1876)の枚方小学校の卒業証書で「牧方小学」と書かれていた。10年代には「枚方」に統一されたが、その後もなかなか行きわたらず混用されている。「まきかたちゃいまっせ」ほんまに。
枚方宿東見附  新町1丁目 枚方市駅北口下車、北へ徒歩約8分 
 同 西見附  堤町 枚方公園駅下車、北へ徒歩約5分
 同 本陣跡  三矢町 両見附から旧街道筋徒歩約20分